Это видео недоступно.
Сожалеем об этом.
木津川口海戦(第一次・第二次)/ 雑賀攻め |失敗続きの信長、大規模海戦を決断!!
HTML-код
- Опубликовано: 5 окт 2023
- 03:45 天正四年(1576年)7月13日、第一次木津川口海戦
08:01 天正五年(1577年)2月、雑賀攻め
14:10 松永久秀の謀反
20:01 荒木村重の裏切り
24:03 天正六年(1578年)11月6日、第二次木津川口海戦
▼おすすめ動画
厳島の戦い 思いがけない奇襲。
• 厳島の戦い 思いがけない奇襲。
桶狭間の戦い 幸運と勇敢さの勝利
• 桶狭間の戦い 幸運と勇敢さの勝利
長篠の戦い
• 長篠の戦い 激闘につぐ激闘。勝利した側も大損...
賤ヶ岳の戦い
• 賤ヶ岳の戦い :戦いに誤算はつきものだが、そ...
沖田畷の戦い
• 【新説】沖田畷の戦い 絶体絶命に陥った時、戦...
耳川の戦い
• 耳川の戦い /戦いは恐ろしい・・・。一度の敗...
三方ヶ原の戦い
• 三方ヶ原の戦い /決戦は不確定要素が多く、お...
第一次国府台合戦
• 第一次国府台合戦 北条氏綱VS足利義明 / ...
朝倉家滅亡
• 朝倉家滅亡 /小谷城の戦い 優柔不断が身を...
浅井家滅亡
• 浅井家滅亡 / 信長、成功からの大失態。二度...
山崎の戦い
• 山崎の戦い / 明智光秀、最後の12日間。
▼音声
VOICEVOX:玄野武宏
VOICEVOX:青山龍星
VOICEVOX:剣崎雌雄
VOICEVOX:四国めたん
VOICEVOX:雀松朱司
VOICEVOX:麒ヶ島宗麟
▼参考文献
信長公記
毛利文書
毛利記事
多聞院日記
武家万代記
予陽盛衰記
信長の戦国軍事学 藤本正行
信長と石山合戦 神田千里
織田信長 神田千里
石山合戦を読み直す 塩谷菊美
信長の天下布武への道 谷口克広
顕如 神田千里
顕如 信長も恐れた「本願寺」宗主の実像 金龍 静・木越祐馨
信長の合戦
織田信長 柴裕之
日本の歴史 一向一揆と石山合戦
一向一揆と石山合戦 神田千里
中世史講義 高橋典幸
激震 織田信長
このシリーズのノッブ常に余裕の態度で全て計算済みとかじゃなくて結構何かと焦りまくるの人間くさくて好き
それでいて度胸があるから案外しぶとい
諦めた瞬間、死が訪れるのが戦乱の世
むしろ信長が本当にすごいのは 失敗を致命傷にしないこと 自分のできる最善を尽くすこと
まさに「どうする、信長」、足掻きながら戦線が拡大しても判断は鈍らない。
信長はスゴイね。どんなに苦境に立たされたも諦めない。これが勝者にさせる謂れなのか
不死鳥のような男なのよ、信長は
信長って信じられないぐらいしぶといよね
普通なら詰んでいる状況でもしぶとく動き続けて逆襲してる
戦国時代だから戦い続けてるだけかもしれません
津島で生まれ育ち、熱田、伊勢大湊そして大津や堺といった港町を本拠地としてきた信長は交易がもたらす莫大な利益を武器とした。だからしぶとかった。
信長は1度負けてからが強い
いいよなぁ、負けても次も戦えるだけの余力があるのは
待ってました!最近腐れ外道成分が不足していますが十分楽しめています。
腐れ外道が足りてなーい
勝った瞬間、強気になる信長好き
強気すぎても、弱気すぎても、戦国の世はダメみたいですし……
この信長、着てる着物が地味で好き。実際もこんな地味さ加減だったような。
大河ドラマやゲームみたいに南蛮鎧にマントとか、ああいうの実際はやってなかったらしいからね。女物の服を改造した服を着たりとか、御馬揃えの時みたいに傾いた格好する時もあったみたいだけど、流石に常に奇抜な衣装を好んで着ていたわけではなかろうし
確か第二次木津川口の後も毛利が制海権を持っていたはず、そう考えると海戦結果が眉唾に感じる。本願寺降伏もこの後の宇喜多裏切りで制海権維持できなくなったのが大きいかと
裏切られても結構許す信長
DVDモバイルプレイしたとき闇堕ちしたハゲ太郎というニックネームのサバイバーがいたので、許すことにしました
実際には第二次木津川口の戦い以降も毛利船団による補給はされていたようですね。鉄甲船も一回限りだったみたいですし。補給が完全に途絶えるのは、秀吉が宇喜多を寝返らせて海路を封じてから。
ただ鉄甲船の強さが毛利に与えた衝撃は大きかったでしょうね
そうでないと篭城側の数千数万の
食料の維持など出来ませんね😅
とすると本願寺の退去は兵糧が
尽きたのが一番の原因ですかね~
鉄甲船は攻撃力最大ですが移動力が1ですからね、秀吉の四国遠征時には輸送船すらできない役立たずだったので解体されちゃいました
鉄甲船も伝え聞いた話として一人が記述しているだけで、実物を見た宣教師の記録や信長公記には鉄の装甲の記録はなく黒い船と書いてあることから鉄の装甲は使用されておらず漆を塗って(そのため黒くなる)燃えにくくしていたのではとも言われていますね
少数の鉄甲船に多数の毛利水軍が破れたのは衝撃でした……火力の差で勝負が決まるんだと
@@milacleyan 瀬戸内海限定みたいなもんだから結局量産されないまま唐入りの時でも安宅船という…
やっぱり鼻水とヨダレのアホヅラが無いのが寂しいなぁ‥
ホンマですなぁ👏💯
あの顔芸そんなに不評だったのかな❓
また見たいわ🤪
どんどん敵を滅ぼして窮地という窮地が減ったから顔芸減った?
なんか盛り上がらんと言うか ちょっと寂しい
あんな汚いのは不要
毛利→(宇喜多)→別所→荒木→本願寺という陸路ルートを反信長勢が抑えていた頃は当然陸路からも補給・輸送ができたし、毛利方の情報を遮断する事もできた。ゆえに海上輸送も安全が担保された。しかし、二次の後には宇喜多が寝返り、別所・荒木も信長軍に破れて勢力を縮小している。これにより陸路からの補給も難しくなり、逆に敵襲に配慮しながら、孤立した本願寺に兵糧入れをせねばならくなっていた。情報も一次の頃より保持するのが難しくなり、毛利の動向は容易に織田軍に伝わった事が想像できる。二次木津川口の海戦で毛利(村上)水軍が鉄甲船6隻のみに敗れ、壊滅的打撃を受けたので本願寺が孤立した、というのは織田方の宣伝に過ぎんのよね。(毛利方の書状ではいくらかが九鬼の水軍を抜け、木津砦にたどり着いて本願寺方と合議したという記録が残っている)
実情は海戦だけでなく、二次の後に陸路の反織田勢力が駆逐されて戦力を集中運用できるようになった、という全体的な勢力の動きの結果、本願寺は完全に孤立した、といえる。
実際に、二次木津川口から約2年、本願寺は粘っているわけで、完全に補給が絶たれたのなら、そんなに持たない。
海戦よりも、その後に信長が荒木・三木ら陸路の反信長勢力を駆逐していた結果なのよね。
ゆえに一次では織田方は壊滅的敗北を喫し、摂津・和泉の国衆の名前アリ武将が多く戦死した記録が残っているが
二次で毛利や村上水軍方の名前アリ武将が戦死したという記録がないのよ
待ってたぜこの瞬間をよぉ
待ってました!歴史物では一番好きです😊
久々に信長登場で面白かったです!しかし、謀反人に対して、信長はとりあえず1度は許そうとしてて(弟の織田信勝や柴田勝家だってそう)意外と寛大な面もあるんですね。
最後の一言、怖いよ。。。。
京を平定してもまた苦難。しかしそれも乗り越えるのが英雄たる所以
この戦いの後も宇喜多の織田方への寝返り、荒木、別所の反乱鎮圧後になる1年半ぐらい本願寺は抵抗続けているから毛利の輸送は続いてて陸側の拠点失って輸送できなくなったことが講和のきっかけになったと考えた方が自然よね。
ここで通常の戦国大名では在り得ない粘りを本願寺がしてくれたことで織田家に滅ぼされずに済んだ大名も多そう。
宇喜多の寝返りで補給失敗となったっぽいですよね
目立たない貢献ですね、最期、鉄甲船にやられたのは仕方ないし
本願寺の抵抗が無ければ、その他各地に割ける兵数も増えるからね
上杉家あたりは救われたかも
待ってた、本当に。
鉄甲船は今も戦国時代の大きなロマンス。
南蛮技術が導入されている。
信長と戦ってもメリット少ないもんな。 火中の栗を拾うのではなくマグマの中に手を突っ込むレベル
さらっと流した第二次海戦後も毛利水軍は補給を続けてるあたり鉄甲船とやらの実態はいかに
関ヶ原が1600年・・・濃密過ぎる年月
好きな戦国大名が毛利なので、とても勉強になりました。
3門の大砲を積んだ6隻の一部鉄装甲の大型木造船より、火炎瓶投げ込み戦法の小型艇600の方が強そうに思えるのだが。大砲といっても当時のは数分に1発程度,砲丸をぶつけるようなものだろうし、鉄砲も竹束で防げる。それが勝利の要因なのか、いつ聞いても疑問に思える・・。
鉄甲船だけじゃなく他の船も出てたんじゃなかったっけ?
界隈でも疑問視する声は多いようですね
なんなら毛利側は引き続き補給を続けているようですし…
上様狙撃されて死にかけたのってこの時じゃなかったっけ?
織田さんは戦の天才的イメージが強いが、戦績を見ると、負けが多いのが実情ですよね
信長の偉いところは会戦以上に負けても負けても繰り出せる体制を構築したとこじゃない?内情は火の車だったかもしらんけど。
信長は若い頃から自ら兵を率いて前線に出て美濃攻略してたりしていて、負けも多数ありましたが敗走中に農民に首を取られたりしていません。その点だけでも素晴らしい
負けても致命傷になっていない。それは信長の損切りの巧さであり、現在の経営者に欠けている能力だと思う。
凄く分かりやすいです🎉
ありがとうございます❗️
最終的に自分だけノコノコ生き延びた荒木村重
ただこの敗戦で毛利方も名だたる戦死者もなく本願寺補給も続けられ石山合戦は1年以上続いてる
鉄甲船はある程度の効果があったけど結局完璧な海上封鎖には至らなかった
第一次では、足利義昭の御側衆に備後国衆が任じられ、芦品郡相方城主有地元盛が幕府軍使になり相方衆が石山城兵と協力して10万石の兵糧を搬入したと、本願寺記録や有地家文書に残っています。
安芸門徒が~って言う人や学者も多いけど、備後衆ですね。
外道の出番が無かった…
待ってた!
10:33 OFF会0人の元祖はこれだったのか。
面白かったです
このチャンネルの信長が一番本人に近いと信じてる。
淡路島北端に毛利の水軍拠点があったんですか〜
勉強なる
信長の人望がないから不利になると配下に寝返られまくる。
某チャンネルよりこっちの方が、見応えある
どっちも良さがある
yukimura?
そりゃもう
腐れゲドウよ
腐れ外道が!
1番🎉
2番でした😅
脳内の信長が「荒木村重の下道」と言っております。
さんてじゃなくてみて(三手)
九鬼の顔こええええ
面白い、、、
毛利輝元が生きていれば……
これを何回毛利家臣思ったことだろうか?
どんだけ裏切られるんだこの男は(笑)
いつも楽しく見させてもらっています!一点だけ気になったのでコメントさせてください。
15:25 松永久秀が爆死したのは川角太閤記などの二次史料の記述なので本当の出来事かは怪しいのではないでしょうか?
松永久秀の爆死はまあ、創作説が有力だけど、松永久秀なら実際にやりかねないとも思える
「尾張の兵は弱兵」という言葉があったが、なかなか困難な敵と戦い続けたから弱兵という印象だった、のかな、と思ってしまう。
失敗とは言うが、信長の本拠が脅かされる事態がなかった。そう考えると、攻勢を続けて、失敗。戦の主導権は渡さなかった、ということか。
そう考えると、信長が攻められた事態というのは桶狭間の戦いくらいなのか?
秀吉の大名としての活動期間が短すぎるからこれは例外として、ほとんどの時期攻め続けることができた大名って信長くらいかもな。
前の絵師さん復活!とおもったら輝元は偽物っぽい・・・
腐れ外道が聞きたい
👍👍👍
消化に忙殺された、も毛利水軍が数で飲み込もうとしてると考えるとあながち間違ってないな🤣
信長って、けっこう負けてるんだけど、最後は勝っちゃうんだよな。
人徳ないから、部下にも裏切られまくりなのにね。
なお戦国武将は人徳があっても裏切られる模様
信長は戦国の世なのに優しすぎただけなんだよなぁ
光秀に首をさらされないために、炎の中で腹を切って、我が身を灰になるまで焼き尽くしたことがすごいなと
けど信長の考えだと 地位や名誉が高くなれば それなりの責任が伴うって考えると そりゃそうだよな、とも思う
下層の人たちには すごく寛容
さんてじゃなくてみて
さんくみじゃなくてみくみ
輝元はこんなに優秀ではない。
そんなこともないってのが最近の風潮では?
優柔不断みたいに後世には伝わってますね、関ヶ原の戦いでも、大軍引き連れて、本気で徳川と戦ったら勝利したかもしれませんし………
@@matukawatositane逆に小早川隆景が現状主義者の無能説聞いて目から鱗でハっとした
明智が裏切らなかったら世界史まで変わってた
まじで明智光秀ばか
こんばんは😊😅😮
足利義昭鬱陶しすぎて草